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ありのままを受け入れてくれる場所で、
自分ができることを重ねていく。

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無茶々園
いまのひと 02
株式会社 地域法人 無茶々園 
西原 和俊 (43歳)

取材日:2021年5月31日
年齢は取材日時点のものです。

会社説明などみかんの浜・明浜で1970年代に生まれた、無茶々園。創業メンバーたちが情熱と理念で突っ走ってきた時代から、組織は固くなり、大きくなり、成長していった。今、中心メンバーは20代で無茶々園に加わり、40代を迎える面々だ。そのひとりが、総務や経理を担当する西原 和俊。ふわりと風のように無茶々園にたどり付き、二度の“離れては戻り”を経て、無茶々園に欠かせない存在として組織を支える。西原の20年といまの想いを訊いた。
ここは、どこまでも自由な会社。
現在はどんな仕事を?
おもに、総務と経理を担当しています。いろんなことの調整役ですね。商品の発注では、年々取引先も増え、売上げも伸びています。ものが売れるのはうれしいです。無茶々園はそもそも“ものを売る会社”ですから。

そもそも僕は、「これは仕事だ」と型にはめていません。この地域で暮らしていると、どこまでが仕事でどこまでが仕事じゃないというのが正直よくわからない。この地域にいて、ここ(無茶々園)に来て、1日を過ごすという感じですね。
無茶々園はどんな会社ですか?
ひたすら自由な組織です。もちろん、それぞれやらなければならないことはあるのだけれど、無茶々園の理念、目的に反すること以外は許されます。社長も、社員と一緒の目線というか、全然偉そうにしませんよね。社員の意見も聞いてくれて、とにかく寛容です。
福岡県久留米市に生まれ育つ。茨城大学へ進学し、農学部を選んだが、特に農業がしたいという強い動機があったわけではなかった。バイオなどの研究をしながら、就職活動へ。ところが時代は超氷河期。想像以上に厚い社会の壁を突破できず、久留米の実家に戻った。悶々と過ごす中、大阪で農業法人の合同就職説明会があると知る。その説明会に参加していたのが無茶々園だった。何かに押されたわけでも、惹かれたわけでもなく、ゆるやかに導かれていった。
若い頃の志はあったとしても、
大したことじゃない。
無茶々園と出逢ったきっかけは?
就職活動がうまくいかず、大学を卒業して、実家に戻りました。時々、ハローワークに足を運んでいましたが、基本はプラプラしていましたね。「これではダメだ」と思って、何かで知った大阪の「ファーマーズフェア」っていう農業法人の合同就職説明会に参加したんです。そこに、無茶々園の創設者であり元代表の片山がいました。片山に「来てみるか」って誘われたのがきっかけです。片山は本当に来るとは思ってなかったようですが(笑)。
農業に携わりたかったのですか?
農学部出身ですけど、農業に志があったような、なかったような程度のものです。無茶々園を選んだのも、実家の九州に近かったからというレベルだったと記憶しています。残念ながら、そんなに高尚な理由があったわけではありません。
無茶々園に来てからの日々は?
住むところも食べるものも用意されていて、毎日農作業の繰り返しでした。右も左もわからないし、無我夢中で言われたことをやりました。体を動かすのは好きなので性には合っていました。働いて疲れて寝て、毎日が過ぎていく感じでした。自分でもなんでがんばれたのか、今となっては不思議ですが、そんな生活を1年半ぐらい過ごしました。

僕が無茶々園にきた20年前は、研修センターという寮で共同生活をしていました。大学を卒業して農業法人に就職するなんていう奇特な人はほとんどいなかったんじゃないかな。一度就職して辞めて、農業の道を志す20代後半の人が多かったように思います。
西原はこれまで2回、自分の意思で無茶々園を離れている。一度目は農作業で腰を痛め、療養の意味を兼ねて。二度目は“まだ知らない世界” “ここではない世界”を求めて。離れては戻ってくる彼を無茶々園は受け入れた。「そういう組織なんですよね」。西原はそう言って、目を細めた。
それでもやっぱり
戻りたくなる場所。
会社を離れた経緯は。
一年半の研修期間のようなものを終えてから、新しい選果場の立ち上げに3カ月ぐらい関わり、松山市の北条で1年半ぐらい農作業を担当しました。たぶん僕の体の使い方がうまくなかったのでしょう。腰を痛めてしまって、治療という意味合いもあって半年ぐらい無茶々園を離れました。ちゃんと辞意を伝えたというよりは、静かにフェードアウトしていった感じでした。家にいたり、プラプラしたりしていたので、さすがにこのままではいかんと思って、無茶々園に「戻りたいです」とお願いしました。

それから3年間、選果場で働いたのですが、ふたたび30歳を前にして、「言葉にするのは難しいですがはっきりとした感覚ではなく漠然とですが、今のままじゃダメだ」という思いもあって、今度ははっきり「辞めます」と会社に意思を伝えました。
二度目の「辞めます」はなぜ?
30歳になったら、“違う世界”に行ってもいいんじゃないかと思っていました。ボロボロの軽自動車に乗って、日本一周の旅に出ました。知らない土地を見てみたいとも思っていました。旅を終えた後はどうにかなるだろうと気楽に考えていましたね。

沖縄県以外の46都道府県を制覇しました。観光名所をめぐったり、無茶々園の元同僚で、長野で農家をしている人のところや奈良のお茶農家でバイトさせてもらったりもしました。元々の予定に入っていたわけではなく、ふらっと立ち寄って手伝わせてもらいながら、いろいろと考える時間にしたかったのかもしれませんね。
戻ってきた理由は。
親が体調を崩して入院すると聞き、実家の久留米に戻りました。そこから別の会社に就職したんです。近所の農業関係の市場で半年ぐらい働いてはみたものの、何か自分の中でしっくりくるものがなかったのかもしれません。この辺りは感覚的になってしまうのですが、無茶々園や明浜の暮らしの方が自分の中でしっくり来たのだと思います。住みやすいし、人もいい。無茶々園なんて、だいたい2回もやめた人を受け入れるような包容力がある会社ですからね。
もう辞めたいとは思わないですか?
さすがに無理でしょうね(笑)。僕にはこの道以外はないと観念しました。ただ今後、人事異動で再び畑に行くことも、もしかしたらあるかもしれません。それがぼくの役目だと求められるならば、それでいい。これでなきゃダメとか、囚われて仕事をするのは違うかな。
西原、40代。明浜の暮らしも20年になる。自分の生きる場所、自分を生かす場所がぶれない日々を送りながら、次の世代へとつなぐこと、自分ができることを考えている。
明浜の暮らしはどうですか。
このまちで暮らすのは気楽ですよ。長く住まわせてもらっているので、地域の消防団をはじめ、いろんな役もまわってきますが、地域の行事や務めも含めて暮らすということなので、住んでいる以上は当たり前のことだと思っています。

ただ、ぼくがすっと地域に入れたのは、創業者の片山のパートナーである恵子さんの存在が大きかった。親がわりのように尽くしてくれて、体調を崩したときなど面倒をみてくれました。無茶々園は今でも県外から移住して、ここで働く若者がいます。ここで働き、生活するというのは必然と、地域と関わるようになるということだと思います。新しく来る方たちのために、地域との橋渡し役になったり、生活面の世話をしたりする人が必要だと感じています。彼らが生活をここで続けていくために、ぼくらは彼らの環境を整えていかなければなりません。
まわりが仕事しやすいように、
自分ができること。
故郷で過ごした年月を明浜の年月が越しましたね。明浜に対する思いは?
明浜という地域がずっと残ってほしいと思っています。明浜が残らないと、地域とともに歩んでいる無茶々園の存在意義も薄れてしまう気がします。明浜で生まれた無茶々園は、地域とともに仕事をして、地域とともに生きていくことにその意味がありますから。
組織の中でも、管理する立場になりましたね。
県外から無茶々園に来た、僕と同じような40代前後が管理職になってきました。同じ世代なので仕事はやりやすいのですが、次の世代のことを考えるときに来ています。僕自身、いろんな人にお世話になってきました。きちんと叱ってくれる人がいました。僕がこの会社に育ててもらったように、後輩たちを育てていくときなのかなと感じています。育てるというのは、なんだかおこがましいですね。その人自身が「成長したな」と思える実感があればいいですね。
会社のひとりとして心がけていることは何ですか。
それぞれがやりたいことをストレスなくやれるように、僕が何かできることがあればやれたらいいな、と思っています。些細な心がかけなのですが、日々の声かけとか、一つ一つ状況を説明するとかをちゃんとすること。そんなふうに思うようになったのはつい最近ですね。
何がそう思わせるようになったのでしょう。
本当の裏方になったから、でしょうか。営業、お客さんの注文を聞く人、出荷する人、出荷した後の事務的な作業をする人と、いろいろとつながっている仕事の中で、僕自身がどんどん裏方にいっているので、そう思えるようになったのかもしれません。裏方に徹するっていうわけではないですけど、この組織のために、地域のために、裏方としての仕事をまっとうしていきたいです。

無茶々園とともに、西原自身も成長してきた。受け入れ、見守る。それが無茶々園という組織の強みなのかもしれない。選りすぐりの人間でできた強固な組織ではなく、一人一人があるがまま、自然のままで生きることが許される場所。西原はそういう組織だったからこそ、ゆっくりとだが、世界で一つの実を結ぼうとしている。やがて、その実は“自由”というふかふかの土壌で、あたらしい芽と風をここ明浜に吹かせていくだろう。

取材・文:ハタノエリ 撮影:徳丸 哲也

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