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無茶々園をぼくらが いま、えんえん語る【第13回】

2023.04.12

ここの暮らしが好き。シンプルな考えでこのまちを生きる。

 

無茶々園 いまのひと

農事組合法人 無茶々園 副理事長

亀井亮太 39歳

 

 

無茶々園がある西予市明浜町・狩浜地区のみかん農家の元で生まれ育ち、父親と二人三脚で3代続く園地を守る亀井亮太。農家らでつくる無茶々園の組織の副理事長を務める。気負うことなく、その日できることに向き合い柑橘農家としてシンプルに生きる亀井亮太を取材した。

 


 

農家の三男に生まれ、後継ぎになる。

 

-いまの栽培状況を教えてください。

極早生、ポンカン、伊予柑、八朔、せとか、瓢柑、甘夏、河内晩柑、レモン、黄金柑と、3.5ヘクタールの広さで、11種類ほどの柑橘を育てています。多品目栽培は母親の方針です。ずっと収穫できて、収入が切れません。もし、一つの種類がたくさんだと収穫の時期が重なるので、一気に取り切らないといけない。収穫は分散した方がいいというのもあって、たくさん作っています。

 

-なぜ柑橘農家に?

地域のひとたちや親から「大きくなったら農家になるんぞ」って言われ続けたのもあって、大きくなったら家の後を継ぐんだろうなと考えていました。

子どもの頃から父親に連れられて、僕を含めて兄弟3人、みかん山に連れて行かれました。末っ子の僕が山へ行ける年齢になった頃にはもう上2人は一人で山を降りることができる年齢になっていました。一人で降りるのがちょっと怖くて、結局帰りたくても最後まで父親と山にいたんです。でも、振り返ってみると、山で過ごす時間がそれほど苦じゃなかったですね。

 

 

-やりがいはありますか。

ずっと変わらず楽しいです。でも、シーズン中は大変。特に肥料やりと草刈り、防除は重労働です。この辺りの山はこの通り、急斜面ですしね。

作業はほかにも木の剪定や摘果などもあるんですけど、一連の作業がうまくいって最終的においしいみかんができる。自然のものなので、手をかけずともできることはできるんですけど、“いいもの”ができるかというところの手応えにも似たおもしろさが果樹の農業にはあります。

 

亀井は地元の高校で生物工学科に属し、卒業後は広島県の電子系専門学校へ進学。卒業後、明浜に戻り、家業を手伝った。2年すると、友人に誘われる形で神戸へ。自分の道を定めず、風の吹くままに日々を重ねた。

 

 

やっぱり育ったまちがいい。だから、柑橘農家。

 

-専門学校に行った理由は?

当時は自分が育ったまちには「何もない」と思い込んでいたので、ここを出たかったんです。広島のコンピューターを学ぶ専門学校に通い、強く学ぶ意思を持っていたわけではなかったけれど、とりあえず卒業した感じですね。

 

-卒業してからは?

地元に帰ってきて、2年ほど家業の手伝いをしていました。まだ農家として生きる覚悟はなかったのでしょう。神戸に住む友だちから「こっちに来いや」って誘われて、「じゃあ行くか〜!」って、地元をふたたび離れました。当時、神戸で過ごしていたら所持金の底がついて、仕事をしようと。それで、昔ながらの商店街にある、時給1000円の八百屋で働き始めました。

 

 

-八百屋で働こうと思った理由は?

単に時給がよかったから。ところがいざ働いてみたら大変で、旬をベースに仕事内容が変わるので、毎日やることが違う。作業を覚えるのに必死でした。最初の2か月間ぐらいは、休みなしで働きました。 

 

-その間、得たものはありますか。

八百屋で働きながらも、この先は農家になるんだろうなとは思っていました。専門学校を卒業して帰ってきた頃は、親の手伝い程度の意識でした。でも神戸から戻った後は、仕事に向かう姿勢が違いましたね。もし自分があのまま農家になっていたら今の自分になるのにもっと時間がかかったはず。神戸にいたのはたったの2年ですが、一度外に出てみて良かったなと振り返って思います。

 

-帰ることにしたのはなぜ?

八百屋では、雇い主の裁量の中で仕事をしないといけませんでした。でも、農家の仕事は、自分の裁量でなんでもできます。2年働いてみて人に雇われるのは無理だなって気づいたんです。

それに、こっちの暮らしの方が合っていました。とにかく、人がいい。飲み屋はないけれど、地元の先輩らと釣りに行って、釣った魚をさばいて飲み会するかぁという感じも好きです。あと、なんと言ってもお祭り!お祭りがあったから戻ってきた、と言ってもいいほどです。

 

 

まちの一大行事「狩浜の秋祭り」の存在感。

 

-狩浜の秋祭りは江戸・末期から続く伝統行事。“出し物”も人のおもてなしも、独特でディープ。とても魅力があります。

これがないと、一年が始まりません。何歳の頃かは定かではないですが、祭りのハイライト“おかえり”を見ることができなかった。でも家に帰ったら、何か、家の中の空気がお祭りなんですよね。あ〜コレだけ味わえただけでもいいかってなるぐらい(笑)

 

 

-コロナ禍にあって今年は、3年ぶりの開催でした。

待ちに待った開催でしたが正直、怖かったですね。愛媛県の南部には祭りに「牛鬼」の出し物がよくあるのですが、中でもここ狩浜地区の牛鬼は動きが激しいことで有名です。2年も休んでいるのに、無事に牛鬼をかけるか本当に不安でした。おそらく、みんな同じ気持ちだったと思いますよ。

やり終わったら、「やっぱ大変やったな」「重かったの〜」と労いあいました。体力をかなり消耗するので終わった瞬間、「祭りはもういいな」って思ってしまう。でも少し経ったら、「はよ、お祭りこんかなぁ」となる。毎年のことです。

 

亀井とこのまちに生きることを強くつなげたのは、狩浜に息づく自然とともにある暮らしや文化。地域と深くつながり、農家として根をはって生きることになったのはごくごく自然の流れだった。そして今、亀井は無茶々園の農業法人の副理事長を務める。

 

 

決めることの脆さ。時代とともに柔軟に変えていく。

 

-そもそも、無茶々園の農家になったのはいつからですか。

父親が、無茶々園の創業者の片山や斎藤とほぼ同年代で、うちの家は無茶々園と農協と半分ずつ卸していました。その後、無茶々園一本になったのですが、その理由はおそらく、農薬をつかわないからだと。農薬を使わなかったら、生産者である自分たちにも害が及ばない。そのことが大きかったように思います。

 

-地域全体で農薬を使わないという方針がよく広がりましたよね。

結局、この地域が良かったんですよね。他の地域で若者有志が同じことをやったら、おそらく、つぶされるはずです。辺境の地にあって、普通のことをしていたら地域として生き残れないという危機感、そして若者の声を受け入れる度量がある。ここだからこそ、無茶々園の取り組みが根付いたのだと思います。

 

 

-ご自身は、無茶々園についてどう考えていますか。

「この考えがいい」とか、「こうやらないかん」とか、僕自身はあまり考えていないです。「こうあるべき」とか考えていたら良し悪しが出てきそうなので。その考えも時代で変わっていくのかなと思うので。

そもそも、明浜町でみかん栽培がメインになったのは戦後。それまでハゼ、イモ、クワと時代に応じて栽培するものが変わってきました。もしかしたら将来、みかんじゃなくなる可能性だってあります。

 

 

人をよびよせる力が、無茶々園にはある。

 

-無茶々園の課題は?

大事なのは何より“人”ですね。都会とか田舎とかに関わらず、どの産地も抱えている問題は一緒です。高齢化、担い手不足、後継者問題と、どこも同じ状況。無茶々園と地域が存続するためには少しでも人を増やさなければいけません。

 

-何か方策はありますか。

1人が請け負う園地の規模としては1ヘクタールが適正と言われています。そんなに広くなくても、何足かのワラジを履きながら、農業もちょっとやってみたいという人が増えればいいのかも。実際にいま、そんな傾向があります。

 

-無茶々園はそういう意味で人を呼びよせる場所ですよね。

無茶々園は、国内外から研修生を受け入れています。期間は限られていますが、それがきっかけで定住につながる場合もあります。東京をはじめ、全国からわざわざこんな離れた場所に視察や研修に来るのも無茶々園があるからこそ。明浜に人が来るためにはなくてはならない場所です。

 

-無茶々園自体も移住者が多いですしね。

今も移住したいっていう人が来ているのですけど、なるべく良いことばかり言わないようにしています。田舎の便利なものを取り入れようと思ったら、人と関わらないとなかなか難しいよ、とか。

 

-人を維持して地域を残したいと思う理由は何ですか。

このまちが好きだからです。何でこのまちがなぜ好きかっていえば、結局、お祭りがあるから。準備から始まり、終わってからの余韻まで、すべての時間が好きです。自分がここで年を重ねてもお祭りを見るためには、人がおらんとできないですから。

 

 


狩浜の秋祭りを知らない人からすれば、ここに暮らす人の祭りへの心酔ぶりを理解するのはむずかしいだろう。“外”に対する心の開き方、人と人とのつながりの濃さ、時代を超えても変わらない地域の営み。無茶々園を育てたまち・狩浜の魅力は、祭りで十分。そんな狩浜で、自分がいいと思うものにまっすぐ正直に生きる亀井。情報や考えの渦に生きる現代で、そのシンプルな生きざまに“なんだかうらやましい”と思わずには、いられなかった。

 

取材・文 / ハタノエリ 撮影 / 徳丸哲也

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