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生きている町

2024.05.16

高校生のころより幾度となく無茶々園を訪問いただいている海野(うんの)あかりさん。高校生のころにはじめて訪れたときの思い出、大人になってから再訪し、あらためて感じたこと。当時の記憶を振り返って寄稿いただきました。とても素敵な文章ですので、ぜひご一読くださいませ。

 


 

ザザーン、ザザーン。波の音が心地よい。ん?ここは海岸からだいぶ離れたお宅だ。ザザーン、ザザーン。赤ら顔の大人たちの酔気にのまれたか?いや、私は正気だ。耳をそばだてる。ザザーン、ザザーン。ああ、家の前の用水路を、海から波が上がってきているのだ――。

 

かれこれ三十年前(一九九〇年代後半)の思い出。狩浜は、海と山と集落とが肩を寄せ合っている土地なのだと肌で感じた。当時、無茶々園は夢が形になりつつあった時代と記憶する。高校生だった私はその高揚感を今でも覚えている。

高校の先生の紹介で、農業に興味のあった私と友人は、夏休み、冬休み、春休みと、片山元治さん・恵子さん宅に一週間ほど泊まった。冬こそ収穫に明け暮れたが、夏は摘果などの半日作業が終わると、シャワー代わりに海に入り、午後は遊んでという呑気な時代だった。

そして夜は愛しきおやじさんたちの宴会、もとい無茶々園の将来を考える会だ。例えば、研修会館の間取りをどうするか?個室か、ベッドを並べるか?あるいは地域共有スプリンクラーで農薬を撒くことになり、全て止めてもらう代わりに、「非・無農薬農家」の畑にタンクに入れた農薬を担いで撒いた時の悔しさ。はたまた育てていたヤギの乳から何か商品化できないか?わからない内容もあったが、酔っ払いたちが本気なのは伝わってきた。

女たちも負けてはいなかった。高齢化をにらんで介護研修会を開いたり、廃油から石鹸をつくったり。

それから十数年が過ぎた――。東京で社会人になった私は過労でダウンした。

 

「ゆっくりしにきたらええけん」

優しく迎えてくれたのも狩浜だった。ほんのり熱のこもったコンクリートの岸壁に座り、目前の海や船や雲を眺める。その頃には研修所もできあがっていて、三十代までに独立するんだと熱心に柑橘と向き合う人、何かを抱えてふらりと来て居ついた人。来るものは拒まず、去る者は追わず。そしてなにより有難いのが、適度に放っておいてくれること。私が人として再生できたのも、狩浜とそこで会った人たちのおかげだ。

 

生きている町――。それが狩浜にぴったりの言葉だと思う。目の前の海や山を守るため、そこに住むあらゆる人たちが安らかに過ごすため、常に前へ前へと進んでいる。それが「お客さん」にとっても居心地がいい理由なのかもしれない。

『天歩』が知らせてくれる無茶々園や狩浜の様子。今も新陳代謝しているようにみえる。町はずっと生き続けていくだろう。そう願っている。

 

 

【プロフィール】

海野(うんの)あかり。1979年東京生まれ。高校の担任の先生に紹介され、1995~97年に無茶々園に来園。その後、社会人になって再訪(2005~2008年頃。2016年)。一番好きな柑橘はポンカン。一番好きな『天歩』は秋祭り特集。

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