かって、右も左も分からなかった頃、日本有機農研にいって一楽理事長に「蜜柑を買ってもらえませんか」と頼んだことがある。すると理事長は、煙草を持っ た手を震わせ、頭を沸騰させながら、「食物を売る買うとは何ごとぞ!」と、怒りだした。真面目に百姓をやりよる我々が、東京まで来て怒られるのは割りがあ わん。「わしらは、生活かけて無農薬の蜜柑を作りよるんじゃ。買ってもらわんことには生きていけんことぐらい分かるじゃろうがこの禿げ頭!」 もう少しで 掴みあいになるところであった。
”儲ける”とは、者を信じると書く。信用できるものを作らなければ売れないということは昔からの真理だ。この時までは、我々は売る買うの世界しか知らな かった。「食物は、作る者と、食べる者とがお互い顔が見え、理解しあって生きていかなければならない」。ここに、我々の知らなかった神様の世界に近い特別 な流通があることを学んだのである。以後一楽師匠の教えのような関係の保てる消費者を求めて行脚が始まった。なかなかこのような関係の消費者に巡り合うの は難しいし、環境破壊の進化と反比例するように減少してきたように思える。
昭和59年蜜柑価格の低迷が続き、このままでは、田舎が必要とする農家まで気力を無くしてしまいそうな状況となった為、栽培の面で一末の不安はあったが 販売面は順調だったので、思い切って地域へ普及拡大する普及段階に移った。会員数は32名に増え、無茶々園化栽培面積は、8ha余りとなり、生産量も58 年の倍以上の200トンを越えた。「無茶々園と消費者との提携に関する申し合わせ書」を取り交わし、さらなる親密な関係をめざした。
昭和62年には農協も有機農業部会として無茶々園を認めることを理事会で決定した。有機農業を目指す農家は殆どが農協に失望して農協をやめていくのだ が、現状ではどうしようもない農協かもしれないが百姓のシンボル組織であることには違いない。必ず近いうちに主導権を貰い受ける。それまでは投資と思って 付き合おう。
昭和63年には会員55名面積34ha生産量700トンとなった。平成2年には会員数も面積も町内全体の1割を越え、着実に若い農業者に浸透していっ た。そして、平成5年、本浦地区においては、50haの蜜柑園にスプリンクラー統一施設が出来上がり、地区全体で、無茶々園に取組むか、農薬の散布をする か、まさに、無茶々園にとって天下分け目の関ケ原の攻防が潜行しながら熾烈に進んでいるところである。
無茶々園は、個人の消費者・グル-プ・団体・自然食品店・小売店・生協・ス-パ-・市場・学校給食等、考えられる殆どの販売ル-トで販売を行なってい る。基本的にはお互いに顔の見える関係を販売活動の礎としているが、エコロジカルな町作りを目指す無茶々園としては、消費者とのきちんとした付き合いも大 切だが、まず、町内全園の無茶々園化を目指しており、大量の無茶々園蜜柑が生産されるようになると、量販店や、市場との付き合いが不可避と思われる。
今後は、提携という関係は大切にしなければならないが生産量、品質等の状態を睨みながら無茶々園独自の、消費者との相互理解を築いて行かねばならない。