昭和54年から無茶々園は、会員各自の園での試作段階に入り、面積を1ha程に増やし、温州蜜柑、伊予柑、甘夏柑に取り組んだ。ところが収穫直前になっ て温州蜜柑にミドリクサカメ虫が異常発生し、半分が駄目になってしまった。折悪く蜜柑の生産過剰の中で思うように販売もできず、実に惨めな現実を突き付け られた。この苦節を教訓にして昭和55年2月にはメンバ-6名が上京して、神田市場、自然食品店、生協、消費者グル-プ、日本有機農業研究会などに出掛 け、栽培技術から販売に至るまで勉強した(以後我々は毎年上京し、研修を重ねている)。6月には全国自然保護連盟の高知大会に出席した。これらの交流を通 して、農業も含めて、自然を大切にしようと努力している多くの先輩諸兄がおられる事を知ったのである。この時点で我々も少しずつ大海の流れを知るようにな り、最早、後には引けなくなったのである。よって、町内全園の無茶々園化、無茶々園の町作り構想へと進化していった。 またこの年、無茶々園規約を作り、機関誌天歩の発行を始めた。
昭和55年、町が、大早津.という場所の日鉄鉱山跡に、三井物産と組んで、LPG基地を作るという計画を立てました。我々は今まで敗ける喧嘩はしないこ とにしていたが、この時だけは敗けるかもしれない、と思いながらも我々の目指す町作りとは反対の方向に進むものと、渾身のエネルギ-を注いで反対しまし た。こんなシンドイ喧嘩は二度と御免だという程頑張りました。
結果的には幸いにも、イラン・イラク戦争の影響で三井物産が断念せざるを得なくなり中止となったのです。なぜ反対かと言いますと、過疎の町へ都市型の企 業が来て、都市並みの給与を貰い、いい車に乗って、ク-ラ-の効いた部屋で、日曜日には海辺でビキニのギャル達とイチャつかれたのでは、汗と草にまみれて 蜜柑山で働く気がせんようになると思ったからです。結果、我々のめざす町にはならないと思ったからであります。しかしながら、伊方町に原発を作った町長 も、明浜町にLPG基地を作ろうとした我が町長も激しい過疎の進行を目のあたりにしたとき無理からん決断と思うのです。(我が明浜町はこのまま過疎が進め ば50年後には人口ゼロとなる)悪いのは、こうゆう都市のお荷物、公害発生源、危険物を金の力で田舎や、南の国へ分散しようとする金持ち、企業家、環境破 壊に加担したり、南の国の資源を無節操に収奪する企業で生活の糧を得ている連中、或いはそんな仕事に父ちゃんを扱き使っておきながら緑の地球を守りましょ う、とかといってる伯母ちゃん達だと思います。(なぜ田舎が過疎になったかを考えなければ原発はなくなりません)
我が町に、都市型産業の導入が破綻したことで、無茶々園のノ-トピア構想が日の目を見る機会がでてきたのです。
四季折々の山海の自然と親しみ、利用し、共存する。そして、年寄りには生きがいを与え、誰もが健康で長生きのできる里、それが百姓の理想郷・・・農のユ -トピア・・・・「ノ-トピア」なのである。伊方町が原発を捨てるには、伊方町にとって甚大な事故が起きるか、原発を必要としないような町作りができるか であって、旗を振って反対を叫んでも変わらないと思うのです。そんな面からしても、無茶々の里に、ノ-トピアが作れるか面白いところです。