私は生まれも育ちも九州なのだが、縁あって愛媛・無茶々園の生産者の嫁となり、段々畑のみかん作りを始めて24年目になる。無茶々園の歴史が46年ぐらいなので歴史の半分は無茶々園の人間として過ごしたことになる。
会報誌『天歩』にも初期の頃は生産者が文章を書き、わら半紙にガリ版刷りで発行していたようだが、事務局体制も整ってきて事務職員が作るようになり、担当職員によって機関紙の空気感ががらりと変わったりして「この方向性の無さも無茶々園らしい」と思ったものである。最近は、まじめで統一感のある機関紙になっているように思う。良いことだと思うが、荒削りな面白さは無くなったかなとちょっと昔を懐かしんでいる。
真ん中が齋藤厚子。左は息子の満天、右はパートナーの齋藤達文。
ところで、私は「てんぽ」を漢字で書くとき、初めの頃「天保」と書いていた。頭の片隅で視覚的な違和感がありながらもこの漢字しか浮かばなかったのであるが、ある時「天歩」だと気が付いた。この地域の方言で、大人の分別はどこかに置き天真爛漫に行動する人のことを、「てんぽなやっちゃのう」という。天の歩みという漢字であったことがはっきり意識にのぼったことで、「てんぽ」という、本当の意味が理解できたのである。
無茶々園はこの天歩な輩たちが作り上げてきた百姓の組織であった(今は百姓だけの組織ではないので、あえて過去形にした)。世の中の食べ物に問題点を見出し、自分たちが健康であるための食べ物を作り、世の中の人々も健康になり農家も楽しく生きられる。そんな社会を作ろうと当時の若者のエネルギーが集まり、全国から共感する人や支援する人が現れて動き出していった。その頃の主流のみかんは見た目の美しさが重要視され、蠟細工のようなピカピカの美しいものばかり。そのような中、安全に焦点を当て自然栽培・有機農法を試行錯誤しながら、主流とは違った別の道を歩む選択をした初期の生産者たちは、精神が強くなければそして信じるものをしっかり持たなければ続けることは出来なかったはずだ。それが出来たのは、寛容であたたかく時に厳しく叱咤激励しながら、私達との関係を切ることなく、そうか病、かいよう病、黒すす、大玉、小玉、・・・「自然の姿というのはこんなにも過酷で多様なのだ」と奇しくも知ってもらうことにもなったようなみかんを買い支え・支援してくれた多くの人たちがいたからこそである。作る側の思いと求める側の思いを常に発信しながら、いつでも心を開きお互いに理解し合える関係性を続けてきたことが、無茶々園が40年以上続き今またこの地域で豊かに暮らすための事業をも展開出来ている所以である。
パートナーの齋藤達文氏は、無茶々園の名づけ親でもある。
無茶々園は今、安定期に入っているようにも見える。けれど私たちは単に安全でおいしいミカンを作って売る、それだけの事業体であってはならない。見渡せば世の中は課題山積。SDGs、持続可能な社会を作るための17の目標等々盛んに言われているが、おそらくこのままでいけば、地球は自然の循環を保てない事態になるという予測があるからなのだろう。このような時代に私たちはどう生きればいいのか。いや、私はもう先は短い。若者たちにどういう未来を作ってほしいと願うのか、である。
自分を鍛え、感性を磨き、天の心で、天の歩みを進める者には真の恵みがもたらされる。壮大なる心象風景を描き一歩一歩進んでほしい。そう願っている。
斉藤 厚子(さいとう あつこ)
鹿児島県出身。以前、草刈りは自然との勝負を書いた斉藤満天の母。無茶々園生産者の斉藤達文と一緒に夫婦でみかん作りをしている。