定年帰農という言葉がある。私の定年まであと2年という一昨年、父が大病を患った。元来のそそっかしさで、高い杉や石垣からの転落など、よくけがもしたが致命傷にはならず、この大病からの再起には正直驚いた。しかし昨年は、熱中症だったのか、約2ヵ月近く寝込み、この前にトラックを畑に転落・横転という事件があった。廃車になったが、本人は奇跡的に無傷。私はこれ以上看過できず、早期退職への踏ん切りが八分方ついた。残り二分は迷い続けて本格就農の春を迎えた。この40年、無茶々園との思い出がある。
高校を卒業後、私は農業大学校で果樹栽培を2年間学んだ。卒業後は即、ミカン農家の後継者となるはずだったが、父が「若いうちに他人の釜の飯を食っておけ」と切り出した。いずれは辞めて継いでくれると期待していたはずだ。私は地元の役場に採用となり、農政係になった。昭和58年だったか、東大農学部で開催された「全国百姓集会」に園草創期のおもだった方々から誘われ、上司の計らいもあり出張扱いで参加した。集会は「百姓蛙よ東大に集まれ、不平不満の大合唱を」との呼びかけに、2日にわたって一人(一団体)3分間のスピーチが繰り広げられた。案の定、農政への愚痴や批判が噴出、持ち時間ではまとまらず、発表者、主催者のいらだちが伝わってきた。我々も、何を話すか決めかねていたが、「ヤーエイトコでもやるか!」との提案に皆が賛同し、最年少21歳の私が音頭をとることになってしまった。いよいよ登壇、四国西南の明浜町から来たこと、秋祭りの牛鬼のかけ声で全国の農業者にエールをおくると前置きをして、緊張も入り、「ヤーエイトコ」はビブラートがかかって会場に響く。そして我々7人は、スタコラサッサと会場を後にしたのだった。この話は、無茶々園とは縁の深い故安達生恒先生(社会農学研究所主宰)が著書「むらの戦後史-南伊予のみかんの里 農と人との物語」の中で詳細に書き添えてくださって、「会場は(かけ声で)その毒気を抜かれ、それから(集会)は農民としての本音が語られはじめた」と結び、このパフォーマンスが功を奏したことが、後でわかった。
在学時には、実習先の果樹試験場の教官から「狩江から農薬を使わずにミカンをつくる方法を教えてくれと面白い連中がやってきた。」と聞いた。世の有機農業への関心はまだ薄かったのだろう、これを機に『有機農業に理解を』と新聞に投稿した。「複合汚染」やその反証本、「沈黙の春」「わら一本の革命」等を読んだことも、思えば園との関わりからだ。地元で芽生えたこの運動体の成長を、私は住民として、一方では行政の立場で見続けられたことを光栄に思い、天皇杯(まちづくり部門)受賞は、皆で頑張った結果だと素直に喜んだ。
子どもの頃、狩浜に壮麗な段々畑が築かれた理由を、山頂に城(砦)を造るためと想像していた。いつしかその間違いには気づいたが、急峻な段々畑や青く優しい宇和海の表情はその頃のままだ。これからも、この風景としっかりと向き合い生きていく。
本格就農までの遠回り、父の米寿まで引っ張ったことに、詫びの一つがいるだろうか。ひとまず半歩ひいてもらい、柑橘栽培技術の教えを乞い、地元ミカン農家が歩んできた生き様と、この集落の記憶を引き継いでおきたい…。というと、彼が今にもあちらに召されるかのようだが、春から俄然元気になってしまい、互いに口を開けばケンカばかりで、とても隠居どころではなさそうだ。彼が望むように、生涯現役でミカン畑にて大往生もよかろう。しかし、私が先に逝ってしまうのも考えものか(私は病院で父のお兄さんと勘違いされた)。雨が降るまで休まないことも、元サラリーマンとしては少々ぐったりするのだが、土砂降りの雨にわざわざ軽トラックの中で新聞を広げ、「晴耕雨読」を地で行く彼の姿には苦笑いするしかない。どうか親子共々よろしくお願いします。
沖村 智(おきむら さとし)
1962年生まれ。旧明浜町→西予市職員をこの春(2021年)退職。狩江地区の歴史・伝統文化・ジオパーク・文化的景観などなど、聞きたいことがあればこの人に。鉱物にも詳しく「メッカラ石」(無茶々園の箱に書いてある)についても教えてもらいました。父・梅男(うめお)は1934年生まれ。無茶々園の農家で実際に畑作業をしている人の中では最年長。