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無茶々園をぼくらが いま、えんえん語る【第3回】

2021.10.06

農業の可能性を感じ、この道へ。

無茶々園の可能性を拓いていく。

 

無茶々園 いまのひと③

株式会社 地域法人 無茶々園 

専務 平野拓也 (44歳)

 

 

全国各地から人が集まってきた、無茶々園。自由気ままな組織を、企業体に導いてきた無茶々園のブレーン、平野拓也。東京大学の学生だった頃、農村へフィールドワークに出向き、農業の可能性を感じたことが、縁もゆかりもない愛媛・明浜の無茶々園で働くきっかけとなった。つくる人、売る人、食べる人。その総体としての農業の可能性を、研究者のように地道に、そして広い視野で拓いていく。

 


 

ようやくできた、“なりたいこと”。それが農業だった。

 

-なぜ無茶々園に?

大学のとき、農業の道に進もうと思っていました。今も昔も無茶々園は、地元・愛媛より関東で知られているようなめずらしい存在です。有機農法に取り組むといった特徴ある農業団体という意味では、20年ほど前でも東京で知られていました。ホームページを見てみると、研修生を募集していると書いてあり、大学卒業する年にまずは数日間だけ訪問したあと、卒業後に研修生になりました。

 

-数日間を過ごして研修生になりたいと思った理由は。

当時は、全国的に農業研修を受け入れているところが少なかったので、全国各地から本当にいろんな人が集まっていました。それぞれが好きなようにやっていましたし、これまで出会ったことがないような変わった人ばかりで(笑)。活気もあり、おもしろそうだと感じたのです。

 

そもそもそのときは、無茶々園で一生というつもりはなく、30歳ぐらいまでは人生の経験値としていろいろやってみてもいいのかなと考えていたので、1年間だけ学ぶつもりで気軽に来たんですよ。

 

 

平野は、京都の新興住宅地に育ち、高校を卒業後は、地理学が学びたいと東京大学教養学部へ進学。地理学のゼミで生まれて初めて、農村と出合い、“なりたいもの”を見つけた。

 

-なぜ、農業の道へ?

高校生のときから、地域がどう成り立っているのかに興味を持ち、地理学が学びたくて進学先を選びました。大学のゼミで、茨城のある農村へフィールドワークに行きました。それまで、農村に行ったことも、農家の生き方に触れたこともありませんでした。40〜50代の農家さんにヒアリングをしたとき、農業に抱いていたイメージがガラリと変わったんです。

 

衰退しているとか高齢化しているとか、マイナスイメージだったのですが、その人はとても前向きに農業に向き合っていて、「ああ、こういうあり方、生き方の選択肢もあるのだな」と、とても新鮮に受け止めました。

 

-イメージが変わったことが、農業を志す動機に?

それまで、「こんな仕事がしたい」と積極的に思えるものに出会えなかった自分が、仕事として農業がおもしろそう、やってみたいと思ったのにはもう一つ、理由があります。農業自体はどんな時代になってもきっと需要はあるだろうし、高齢化の先には、ぼくのような若者が入り込めるスペースがある、自分の役割があるなと思ったんです。

 

-“田舎”で暮らすことにためらいはなかったのでしょうか。

小さい頃から地域の野外活動に参加するぐらい、自然が好きでした。大学時代は、ロープを使った本格的な山登りもしていたんです。大学4年のとき休学して、北アルプスの山小屋で、住み込みで働きました。普段通りに朝起きて仕事をして、寝る。数カ月間、山の上に暮らしましたが、正直これまでの日常と変わらないなと感じたのです。

 

無茶々園がある明浜も、「不便はあるのだろうな」と想像はして来たのですが、実際に住んでみたらあまり気になりませんでした。自分にとっては、都会で暮らすのもここで暮らすのもそんなに大差はありません。住む場所を選んでいるのではなく、やることがあるからここにいるという感覚です。

 

 

組織、システムを整え、いまの無茶々園をつくる。

 

 

組織が脆弱だった時代から、システムの効率化や企業の組織化をはかってきた平野。その先導で着実に発展を遂げた無茶々園は、次のフェーズをめざす。彼の堅実な手並みに託されるのは、産地とともに生きていくための未来の手立てだ。

 

-1年のつもりが、もう20年以上経ちましたね。

そうですね(笑)。最初は農作業をしていましたが、途中から事務所の仕事もするようになり、2年後ぐらいには事務がメインになっていました。組織がバラバラだと取引先に迷惑がかかりますし、せっかく生産者がつくった柑橘も報われない。データ化も含めてきちんとした体制をつくろうと、目の前の課題に取り組んできました。

 

-具体的には。

例えば、農家とのやりとりのデータ化や通販の仕組みなどを作ってきました。一件、一件農家とやりとりし、栽培方法や、何の品種を作っているかなどをヒアリングし、データ化していきます。栽培履歴を書く記録システムも作りました。この仕組みを作っていくことだけで大変でしたね。

 

-基盤がしっかりした今、例えばどんな変革が必要ですか。

みかん自体、全国的に生産者が減っているため、年々価格が上がってきています。無茶々園は、農家から固定単価ですベて買い取っています。農家側にはリスクはないけれど、逆にいうと相場が高いときも同じ単価です。固定単価という基本的な仕組みから疑ってもいいんじゃないか、と考えています。

 

 

-高齢化など担い手不足の課題もありますね。

明浜のみかん畑はかなり傾斜のきつい段畑で作業をしなければなりません。機械化が一般的な世の中で、機械はここでは役に立ちません。今のやり方では楽にならないのです。ましてや、無茶々園では、農薬に頼らず有機農法に取り組んでいます。ただでさえ大変なのに、草刈りをはじめさらに大変さに輪をかけているのが実情です。

 

一見不利ともいえる環境で、生産者の生活が成り立つための農業を前向きにやっていかなければなりません。後継者も含め、人材の確保もそうですし、栽培の方法も工夫してやっていく必要があります。効率とか生産性という意味では他の産地に敵わないけれど、だからこそおもしろい農業ができるのでは、とも思うのです。 

 

-ハンディが地域ごと有機農業に特化できた理由なのでしょうか。

世の中が有機農法に関心を抱く前のことですしね。ただそういうことではなく、有機農法をはじめた人たちが、地域の中で熱心な人たち、エネルギーがある人たちで、そこに求心力が生まれたのでは、とみています。

そして、きっちり仕事として、販売も含めて成立させようと本気で取り組んだのも大きいです。無茶々園の創始者は、理想を語っているようで実は現実路線をたどっていたということだと思います。

 

-平野さん自身は、有機農法に惹かれたのですか?

「有機じゃなきゃ」と、強く思っているわけではありません。ただ、有機栽培の方がおもしろいなとは思っています。一般的な栽培方法よりも、いろんなものに頼れない分、考えてやる要素が大きいから。草でいえば、刈るか刈らないか、ということから逡巡します。刈らなくていいものがあるとすれば、草刈りの労力を減らせます。惰性で草刈りをするのではなくて、考えてやりたいのです。

 

 

組織をリードしながら、一人の生産者になる。

 

 

生産の現場から離れ、組織を支えてきた。平野はふたたび、果樹をつくるという原点に向き合おうとしている。それは彼にとって、やりたいことであると同時に、やらねばならないことなのだ。

 

-今後、やりたいことは。

柑橘の栽培もやっていきたいです。もともと、農業がしたくて無茶々園にきましたし、農家に求めることをまず、自分ができないと意味がないとも思っていました。5年前、近所に空いた畑ができたタイミングでレモン畑から始めました。

 

-農業の中でも果樹栽培の魅力とは。

柑橘は何十年も同じ木で栽培をします。野菜は毎年一からやり直しができても、柑橘ではそれができない。過去作った枝でつくらなければいけない。大変でもあるのですが、そこがおもしろいと感じています。

 

この仕事って、毎年同じようなことをやっているように思うかもしれませんが、実はぜんぜん違うんです。やることの中身は毎年どんどん変わっている。それがやりがいにもつながっています。

 

-なぜ、今になって自身で栽培を。

これから年を重ねても続けられる仕事であるというのと、 生産者と一緒に有機栽培の技術をもう少し極めていきたいとも考えています。そのために、自分自身で栽培しながら、土壌のこと、草のこと、栽培方法などを勉強しています。いずれ、現場にいる人たちと一緒に、無茶々園としての栽培マニュアルのようなものをまとめていきたいですね。

 

-栽培マニュアルがなぜ必要なのでしょう。

きっちりした栽培技術を生産者団体として打ち立てることで、生産者の経営や栽培リスクが改善され、“不利”な産地でも産地として生き続けることができる根拠のようなものになると思うのです。産地と一緒に歩んでいく企業だからこそ、やるべきこと、やるべき転換を模索していきたいですね。

 

 


 

住む場所も仕事もこだわりはない、と平野は言う。やりたいこと、住みたいところに執着するのではなく、自分が置かれた場所でやることをやる。ただ、平野の“やる”は半端ではない。心技体をバランスよく使って、そのときのできる限りの最適解を出す。コツコツと打っていく彼の“布石”が、無茶々園の未来をどっしりと支えていくだろう。

 

取材・文:ハタノエリ  撮影:徳丸 哲也

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