“時代の変わりめ”を見極め、
地域産業の変化を促す。
無茶々園 いまのひと④
株式会社 地域法人無茶々園
事業部 部長 高瀬 英明 (42歳)
愛媛・明浜の無茶々園が、世の先端を切って有機農法をビジネスに乗せたのが、今から半世紀ほど前。首都圏を中心に“ローカルプロダクト”が注目を浴び始めた2010年代には、オリジナルコスメやジュースといった、自社の柑橘を生かした加工品に高いデザイン性を備え、新たなマーケットを拓き、企業として発展した。その仕掛け人が、流通の大手企業から転職してきた、高瀬英明だ。これまでの歩みと想いを訊いた。
-東京や大阪のセレクトショップで、よく無茶々園の商品を見かけます。
無茶々園のジュース・加工品の売り上げはこの10年間で、1億円から2.3億円まで伸びています。柑橘ジュースなどの加工品は今でこそ、ラベルデザインに凝ったものがありますが、当時はほとんどなかったので“先行者利益”みたいなところもありました。ただ、デザインのベースにあるのは“きちんとした中身”をつくっているということ。デザインは、その上での“お化粧“です。
それに、先人たちが柑橘産業を明浜で根付かせてきたからできることだし、県の産業政策を通して、愛媛といえばみかんと広く認知されているというベースがあってこそ、できることです。
-なぜデザインに力を入れたのですか?
その当時、全国各地のいいものをセレクトする「中川政七商店」が伸びてきて、“ローカルプロダクト”が注目されはじめていました。無茶々園の柑橘とデザイン性とを噛み合わせれば、いけるのではないか、と考え、入社して3年後に会社に提案しました。
高瀬は、山に囲まれた愛媛県鬼北町に生まれ育つ。中学、高校時代、田舎コンプレックスに苛まれながら、東京発の情報を雑誌やテレビから、むさぼるように吸収する。愛媛大学に進学し、経済を学ぶ一方、“ネット漬け”の日々を送った。時代はインターネットの黎明期。未明、情報の渦中に身を置くことで、情報を整理したり、時代の感覚をつかんだりする力をおのずと培っていった。
ネットと流通の世界で、知識と経験を積む。
-どんな大学生活でしたか?
勉強はそこそこで、サブカル漬けでしたね。小さい頃から、本やコミック、雑誌とかで文字を追うのがとにかく好きで、ちょうどパソコンやネットが普及しはじめた大学時代に、ネットの掲示板に書き込みすることにどっぷりハマりました。勉強はほとんどしなかったですね(笑)
-就職活動はどのように。
就職活動をした2001年当時は、超氷河期と呼ばれた時代。それと、ネットでのエントリーが普及しはじめたころでした。大学の就職課の人から「とにかく100社ぐらいにエントリーしなさい」って指導されたので、本当に100社、エントリーしました。新しい事業を手がけるから大胆に思われがちなのですが、実はぼく、手堅いんです。
-企業を選んだ理由は。
マーケティングに興味があって、流通業に行きたかったので、コンビニやスーパーを手当たり次第に受けて、4社受かりました。結果、全国展開する大手スーパーに就職しました。
当時、その企業は業績が思わしくなく、大量採用して資金注入して再生するぞ、というフェーズでした。あえて飛び込んで、窮地から生まれる、おこぼれ的なおもしろい流れに乗っかれるんじゃないかという思惑があったのです。
-入社してからどんな経験を。
最後の大量採用だったので、ぼくの同期は400人ほどいました。1年後くらいには半分くらいになったそうなんですけどね。最初は広島に配属され、接客、商売のイロハを学びました。仕事自体もおもしろかったです。いろんなお客さんの相手をするのが楽しかったし、自分で売り場をつくって、売れるのもおもしろかった。担当はインテリア系からはじまり、日用消耗品へとどんどん広がって、自転車の組み立てなんかもやっていましたね。
入社から4年後、販売促進の部署へ配属される。そこで、会社でのその先を描けなくなった。現場から外れたこと、組織のヒエラルキーへの違和感、業績改善に躍起になる社内の重い空気。通算6年勤めた企業を離れ、2008年、地元・愛媛に戻り、無茶々園に入社した。
“たまたま”と直感で、無茶々園に入社する。
-会社を辞めた理由は?
4年目で店舗を離れ、本社配属になりました。チラシや資材、CMをつくる販売促進の仕事は楽しかったけれど、店長がやりたかったし、「出世しないといけないぞ」と説教されたり、上司の酒は好み通りに部下が作ったりとドラマのようなヒエラルキーの世界で、1年後には、「ここで働き続けるのはないな」と思いました。親会社になった企業の指導も厳しくて(当たり前ですが)、社内がピリピリしていたのも嫌でした。
-なぜ無茶々園に。
正月に愛媛へ帰省したとき、たまたま無茶々園で働いていた大学の同級生がいて、仕事の愚痴を吐いたら、「家業を継ぐから、代わりに無茶々園で働かないか?」って誘われたんです。福利厚生、給料は下がるけれど、精神状態の方が大事。即、その話に乗っかりました。それに転職活動をするまでのエネルギーもぼくにはなかったんですよ。
-今の会社か、否かという二者択一だったのですね。
一応、ウェブで下調べをしたら、ホームページに創業者の考えがバーンと出ていました。有機農業もエシカルもSDGsという言葉もなかった数十年前から、環境保全型の農業に取り組んでいる。おもしろそうだな、と感じました。そもそも中小企業にHPがあること自体、当時は珍しかったので、ちゃんとやっているなという印象も受けました。30歳を手前に、もちろん覚悟もありましたよ。
-これまで働いてきた企業との違いは。
流通側にいたときは、極端に言えば、ボタンを押したら商品が入ってくるぐらいの感覚でしたが、ここに来て、“もの”は誰かがつくっているという当たり前のことに気づきました。社内には、同世代もそれなりにいて、気も話題も合いました。自由にやらせてもらえる社風も合いましたね。
それでも入社当時は、ただ単に「みかんを売ればいい」と思っていました。ものを仕入れて売るのではなく、いろいろうんちくを言ったり、相手の思いを汲んだりしながら売るのが自分には合っているな、と気づいたのはつい最近のことです。
2012年、柑橘オイルを使ったコスメブランド「yaetoco」を立ち上げる。流通業で働いた経験と直感で、ブランディングした商品は無茶々園のあたらしい客層とマーケットを生み出す。yaetocoの成功をきっかけに、地元の新進気鋭デザイナーを起用し、ジュースなどの加工品のラベルデザインも一新。仕様と価格も見直し、無茶々園の商品は、各地の目利きのバイヤーやセレクトショップのオーナーから、“選ばれるもの”になった。
“本丸”着手は成功の後で、のしたたかさ。
-なぜ、コスメだったのでしょう。
ぼくの子どもの肌が弱くて、自宅で手作り石鹸を使っていました。「これは商品としていけるな」と思ってもいたし、無茶々園でも、自社の柑橘を使ったエッセンシャルオイルを扱っていたんです。でも、デザインがイケてなかったので、このオイルを活かしたコスメに着目しました。
そもそも、yaetocoは、ぼくにとって、デザインの“試作品”のつもりで挑んだのです。これまで無茶々園がやってきたものとはまったく違う畑のものでトライしてみて、成功したら、ジュースの“本丸”に着手しようと。本丸のデザインから手をつけたら、みんなビビるんですよ。
-どのように会社に提案したのでしょう。
柑橘のエッセンシャルオイルを活用して「こんな商品ができる」というアイデアと、ギフトショーや展示会をやって売り先を確保し、新しい販路が生まれることを、具体的な数字を盛り込んで提案しました。
補助金を申請して、100万円ほどとってきて、化粧品の製造委託をお願いしている会社から紹介してもらった新潟のデザイナーさんに依頼して、柑橘のオイルを使ってハンドクリームや化粧水などを展開しました。
-yaetocoもですが、ジュースのデザインも既存のものとは一線を画します。
そもそも、なぜラベルデザインを一新するかといえば、ジュースの価格がそもそも安すぎるという問題も含んでいました。デザインで付加価値をつける狙いもあったんです。
柑橘の価格は、10キロ箱などに入れて市場に出して、第三者に値段を決めてもらうのがよくあるパターンです。特に加工品に回る柑橘は二束三文で、自分たちがつくったものの価値がいくらになるかさえもわからないのが実情でした。
地域産業ごと、デザインをする。
-デザインの一新は、既存のあり方を変える布石なのですね。
我々が今、当たり前に思っていることは、たまたまその当時の必要性に応じて作られたものです。「ピカピカがいい」とか「大きさが揃っている」とか「青果中心で評価する」、とか。
昔のようにみかんが溢れていた時代ならそれでいいかもしれないけれど、今は年間10万トンほど足りてないんです。だったら、青果はもう少し高く設定し、加工品にも付加価値をつけられるような構造にしていく必要があります。時代と実情に見合った“ものさし”を持たなければいけません。
-マクロで捉えているのですね。
無茶々園だけではなく、地域、そして、愛媛県全体の柑橘づくりを今後どうしていくのか、みなで考えて、その中で無茶々園だったらこういうアプローチをする、という風に、今の最適解をつくっていきたいんです。目の前のフィールドだけじゃなく、全体を見ることができる環境づくりができたらいいな、と思っています。それが、ゆくゆくは地域産業のデザインを考える、ということになるのかもしれません。
-その場合、「デザイン」とは何を指しますか?
駐車場のラインのような、“整理整頓”できるツールだと考えています。プロダクトのデザインだけではなく、作業や、仕事の流れ、産業自体とかを整理するためのツールがデザインだと考えます。例えば、お店の売り場も、ちゃんとレイアウトのデザインをやっていたら、レジも混雑しないし、売り上げが上がるんですよ。
そして、田舎とか都会とかの二元論もできるだけ排除したいと思っています。全部のバイアスを取り除いたうえで、売れるものを作る。その要素としてもデザインが必要だと考えます。
これが「正しい」、というのはもういらない。
-無茶々園がある明浜という地域を、どうみていますか?
柑橘産業の産地でありながら、観光としてのポテンシャルも高いです。はじめてここに訪れたとき、景色があまりにいいから、「めちゃくちゃスペシャルな感じやな、何かストーリーが生まれそう」と思いました。地方出身者でもそう思うんだから、都会から来た人はもっと感じるだろうな、と。
-無茶々園は東京や大阪からの移住者が多いですよね。
都会は実力のあるひとが集まる構造で、勝手に問題解決になる。田舎はどうしても実務能力の高い人がでていきがちな構造になっていて、問題は山積みになりがちです。“ポスト”はあいています。いろんな人がこの地域に入ってきて、一つずつ問題を解決していくことが理想です。
ただ、田舎だから農業だけすべしみたいな考えは、もう捨てていいと思っています。株式投資したっていいし、ディーラーになってもいい。昔だったらできないけど今はできます。いろんな人がきて、いろんなことをすればいい。場所を問わず、どこだってトレンドになりうる時代です。
-無茶々園自体も、過疎や産業の課題解決のプレイヤーの一つです。
ようやく10億規模の企業に成長しましたが、大きな企業が一つ存在するのではなく、中小企業がたくさんある方が健全だし、多様性が生まれると思っています。
-多様性は、無茶々園という組織に感じることです。
本音を言うと、ぼく自身、柑橘栽培にも一次産業にも地域にもそこまで思い入れはないんです。仕事として振ってきているから、やる。知ることは自分のためにもいいことだし、しっかり勉強します。目の前の課題を見つけて、それをみんなで楽しくシェアして、同じ窯の飯を食っている仲間たちとみんなでやりたい。人は多い方が楽しいし、ケンカもした方がいい。それが、多様性や変化につながると思っているので。
「正しい」なんていうのは、もういらないんですよ。ルールややり方は常に変えていけばいいし、もし挑戦して間違ったら、直せばいい。文化祭でワイワイするみたいな感じで、みんなで楽しくやりたい。目標に向かって、ずっと“準備”をしていたいです(笑)。
「これが正しい」というのはもう、いらない。これが、高瀬の考え方をもっとも表していると同時に、無茶々園のいまの組織、そしてこれからのあり方も示唆している。プレイヤーでありながら、冷静に大局を見据え、無茶々園ブランドを世代とエリアを超えて浸透させてきた高瀬。「正しい」「正しくない」、「田舎」「都会」……。世の中にはびこる二元論から解き放たれ、時代の最適解を解いて浮かび上がるものは何なのか。その知識と感性で、無茶々園を舞台に本気の“社会実験”を続けていく。
取材・文/ハタノエリ 撮影/徳丸 哲也