ここに生まれ育ったからこその“本気”。
地域に責任を持つ、という生き方。
無茶々園 いまのひと⑨
株式会社 地域法人 無茶々園
代表取締役 大津清次(57歳)
無茶々園のある西予市の明浜地区で生まれ育ち、運送屋を開き、柑橘を運んでいたことが縁で、無茶々園の社員第1号になった大津清次。創業者の右腕として、いち早く地域ぐるみの有機農業の可能性に着目した“未開”の団体を、組織化し、構想を具現化していった。その強い責任感と懐の深さで、現在、株式会社 地域法人 無茶々園、福祉事業、明浜の第三セクターと複数のトップを務める大津の、これまでの歩みと想いを訊いた。
生きていくために、無茶々園の社員になる。
-実家は柑橘農家だったそうですね。
私が子どもの頃、親は明浜で柑橘農家をしていました。小学高学年のとき、みかん農家をやめてしまったんです。そのときはまだ無茶々園もなく、急勾配の段畑で、慣行農業をしていました。長男だったから、親の後を継ぐものだと思っていたので「これから何をすればいいんやろう」と、立ち止まってしまいましたね。
-それからどんな道のりを。
とりあえず大学に入ろうと思いましたが、親が離農したぐらいだから、大学に通うのは家計への負担が大きくて、国立大学一本にしぼりました。勉強も真面目にしていないから、受験で失敗して浪人生活を送りました。結局、大学をあきらめて働くことにしました。父親も農業を辞めてから青果業を営んでいたので、どこかの会社に属するというより自営業という方がしっくりきて、20歳、軽トラック1台で、運送屋を始めたんです。
-無茶々園に入ったきっかけは。
地元に拠点を置いたので、無茶々園の柑橘も運んでいました。当時は出荷場がなかったから、農家の家に行って荷物を積んで、運んで。そうして運送業で3年が経ったころ、近所に住んでいた無茶々園の当時の代表・片山に、「うちの専属になってくれ」と誘われました。「いまの稼ぎぐらいの給料」「肩書きは“専務”」という“条件”で、入社しました。やるならそれぐらいの覚悟が必要だと思っていましたから。
大津は、無茶々園の社員第1号。産地の生き残りに危機感を抱いた、地元の農家の有志たちが無茶々園をつくってからすでに10年が経っていた。それでもまだ組織化していない実態とは相反して、関東を中心に無茶々園の柑橘へのニーズは拡がっていく。
“外”の人たちから学び、成長していく。
-入社してからどんなことを。
やれることはすべてやりました。昼は“運送屋”です。当時はリフトもなくて手作業で荷物の上げ下げをしていました。疲れ切った身体で、夜は事務所で仕事をしました。一軒家の事務所で、そこに生産者が2人ずつ当番制で集まって伝票を手書きで書いていました。電話当番とかしてね。
思い返してもこの頃が一番しんどかったし、楽しかった。ちょうど、事業としても伸びている時期だったから、ひとりではどうしても回せない。そんな時期が2、3年は続きました。あともう少し続いていたら、やめていたかもと思うぐらいでした(笑)
-なぜ続けられたのでしょう。
一人で運送業をしていたときもそうだけれど、どんな仕事だって大変さは同じです。その中にもやりがいを見つけていくのです。東京の人たちがこんな辺ぴな場所までわざわざ来て、お酒を一緒に飲みながらいろんなことを語り合う。そんな時間が楽しかったし、自分たちがやっていることの価値をお客さんから教わりました。“外”の人たちと交流したことが、自分自身が成長できた原点かな、と今振り返って思います。
-無茶々園自身も、“外”との交流で大きくなってきました。
明浜は、もともと全国でも5本の指に入るみかんのブランド産地でした。しかし儲かるためには圧倒的に不利な産地でもあり、1970年代、産地として生き残っていくために始めたのが有機農業でした。
ただ、有機農業というのは、消費者の理解があってはじめて成り立つもの。単に農作物を売ればいいというのではなく、同時に、生活、環境をきちんと変えていく社会運動もしていく必要がある。そのことを、消費者のみなさんから、教えてもらいました。せっけん運動を含む環境問題も、福祉事業も地域づくりだというのを消費者のみなさんから教わって、片山が無茶々園の理念をこしらえた。それが、持続可能で、健康で安全な地域づくりという無茶々園の理念なのです。
大津は35歳のとき、東京都にある「日本労働者協同組合」(ワーカーズコープ)に出向した。ワーカーズコープとは、働く人びとや市民が出資しあい、出資者が経営に参加し、民主的に事業を運営。人と地域に役立つ仕事を自らつくる協同組合のこと。大津は出向中の3年間で感じたこと、学んだことを、無茶々園に戻り、アウトプットしていく。同時期、組織の中枢になっていく“よそものメンバー”も加わり、“農業団体”は最大の変革期を迎えた。その象徴が、2004年、「地域協同組合 無茶々園」の誕生だ。
“非効率だから”と、切り捨ててはならないもの。
-なぜワーカーズコープに出向を。
「ワーカーズコープ連合会に加盟したから、みかんの営業をしてこい」と片山に言われて訪問したのがきっかけです。当時、大豊作でみかんが安く、大手スーパーでは10㎏箱1000円で売られたみかんを、「7.5㎏箱3800円で2万ケース販売してほしい」と労協連(ワーカーズコープ連合会)の会議で訴えました。2000ケースがいいところだろうと腹づもりをしていたところ、1万ケースも注文がきて、慌てて白旗を上げたことがありました。なぜ販売会社ではない組織でみかんが売れるのか、当時は不思議でなりませんでした。
3年ほどお付き合いしていたら、労協連の永戸理事長から「東京に来てみないか」と誘われ、チャンスがあれば「東京に行って、学びたい」という思いもあったので、家族と一緒に東京へ移りました。これまで無茶々園は、片山の理念のもと、がむしゃらにやってきたけれど、組織のやり方じゃなくて、あくまで農家のやり方。3年間、外部組織をつぶさに見ることで、組織の仕組みを変えないといけないと実感しましたね。
-それが「地域協同組合」ですか?
実は片山はずっと、「地域協同組合にしなければいけない」と言っていたんです。ワーカーズコープの運営方式もまさに協同組合です。全員が出資し、出資した人が1票の権利を持つのが協同組合。役員選考も含めて多数決で決めます。一方、株式会社は、株主の持株の比率によって決定権が変わってくる。その分、スピード感を持っていろんなことに取り組めます。社長が気に食わんと言ったらダメ。協同組合はどれだけお金を出しても一票制で、出資と経営と労働のすべてを労働者がやる。片山は、田舎こそ協同組合を取り入れるべきだ、というのが持論でした。
-なぜでしょう。
昔から明浜地域では、「班(はん)」、「結(ゆい)」と言って、自治会みたいな組織があります。地区のことはみんな集まって議決して、お金を徴収してやっていました。いわば、共同体。田舎はめんどくさい、と言われる理由の一つでしょう。明浜とともにある無茶々園は、個々の意見を尊重する協同組合運営の方が向いている、と言うのです。
出資者が1票を持っているから、理解を求めて説明をしなければいけません。ただ、それだと決定までに時間がかかるので、加工品展開などは株式会社をつくって、事業を進めています。大きな流れは農家の賛成を得ていく協同組合運営をしていこう、と。
-決定に時間がかかるのは組織にとってマイナスでは?
なかなか物事が進まないのは、仕方がないことです。職員も農家もひとりひとりが主体性を持って、底辺レベルが上がった方が組織は強いし長持ちする。土台がちゃんとしていないと、継続は無理。そもそも協同組合の利点は、個々が主体性を保つということです。それが一番、組織として大事です。田舎も農業地域も、主体性を持った人がたくさんおるところが、最後には勝つと思うんです。
-主体性を持つ人、とは?
その仕事を「やりたい」「したい」と思っているかどうかです。主体的に働くか、しょうがなく働くかの違いはとても大きい。職員に、「無茶々園に入ってよかったと思うんか」って聞くんです。「無茶々園に入ってよかった」とならなかったらここで働く意味がない。入社してくる人も、「ここで働きたい」って思っているかどうかで、発揮できるパフォーマンスが全然違ってきます。
年々、個々の主体性がなくなってきていることに強い危機感を覚えています。どうやって活性化していくのか。若い年代へ役員を変えていくというのも一手です。創業者たちも、若い世代にどんどん託してきました。
-主体性を引き出すにはどうすれば。
そのひとつが、公開制です。無茶々園では、職員はもちろん、パート職員にも、月ごとに決算を公開しています。売り上げ、経費も、みんなまで共有して意見を出し合う。そこまでやらんといけません。組織をできるだけ小さくするのも、主体性を持たせる上では大事です。
“自給するまち”を掲げ、地元漁業とも連携を強め、地域産業、福祉と事業のフィールドを広げていった無茶々園。そのベースには、組織をまとめる大津の、粘り強さ、胆力があった。2008年、無茶々園の一つの組織が法人化し、大津が社長に。2013年には、福祉事業を本格スタートさせ、地域に老人ホームをつくった。
変わらないと、先はない。
-どんな経緯で社長に?
片山から、「社長になって」と言われました。これまでやってきた責任があります。これまで、片山の発想を実務的に処理してきました。ずっとやってきたことなので、社長になったからと言って、これまでと何かが変わることはありません。
-農業ベースにしながらも、漁業、福祉事業、“ベトナム”事業を展開しています。
地域で、持続可能な環境や暮らしを持続していくためです。それに、無茶々園のベースは農業組織ですから、どれだけ頑張っても農家が作った分しか売り物はありません。天候による不作も免れることはできません。そう考えると、事業の3分の1は、農業以外で収益をあげるように、分散して事業化していくことが無茶々園の存続にかかってくるのです。
-新しい事業にチャレンジする理由は?
よく企業の寿命は30年と言われるけど、何かといえば、一代の長さなのです。次の世代につなげるのが難しいことを示しています。無茶々園と同じように、50年前にできた有機農業の組織を見ていたら、やり方を変えていないところはやっぱり後継者も出ないし、姿を消している。組織は常に変えないとマンネリ化してしまうし、「これが当たり前」と思ってしまったらダメ。無茶々園は幸いにも、創業者の影響で、常に新しいことをしなければいけない組織になっています。経営者の肌感覚というのか、そこが創業者のすごさだと感じています。たまたま、イノベーションが起きやすい組織だったということです。創業者がまいた種を収穫してきたのがこれまでです。これからはまた、次の世代へ新しい種を蒔かなければなりません。
大津はあと3年で60歳。片山が“引退”した節目が迫ってきた。現在、全国の生協の代表も務め、2021年からは明浜の観光業を担う第三セクターの社長も務めている。
-いろんな組織の社長を引き受けるのはなぜ?
仕事のやりがいもありますし、生まれ育った場所だから、この地域を「なんとかせんといかん」という使命感が大きいですね。
-これからの課題は。
人口減少、担い手不足などの地域の課題はもちろん、気候危機といった地球規模での課題にも向き合わなければなりません。そのためにも、F(食料)E(エネルギー)C(福祉)W(働く)という観点から自給できる地域づくりを推進していく必要があります。20年先、30年先を見据えた事業・運動を、次世代のリーダーたちへバトンタッチしていきたいですね。
大津は40年間、創始者の想いと構想をひたむきに泥臭く実現してきた。その汗が染み込んだバトンを次世代に引き継ぐ日は迫る。高齢化、人口減少、温暖化と課題が重なる中で、“地域組織”として何をすべきか。大津の舵取りに無茶々園の、そして、地域の未来が託される。
取材・文 / ハタノエリ 撮影 / 徳丸 哲也