暮らす 働く

無茶々園をぼくらが いま、えんえん語る【第11回】

2022.08.16

明浜に生きる一農家として、

“突き抜けた人”をめざす。

 

無茶々園 いまのひと⑪

農事組合法人 無茶々園 副理事長

宇都宮 司  33歳

 

 

無茶々園の多くの柑橘農家が所属する「農事組合法人 無茶々園」。その副理事長を務めるのが、宇都宮司だ。かつて同法人の理事長を18年続けた父を持つ、“無茶々園セカンド世代”の宇都宮に、これまでのあゆみや柑橘農家としての考え、想いを訊いた。

 


 

体と記憶に染みつく、柑橘農家という生き方。

 

-なぜ柑橘農家になったのですか?

世帯の多くが、無茶々園の柑橘農家である明浜・狩浜地区に生まれ育ちました。4人兄弟の長男なので、中学生ですでに「みかん農家になる」と思っていましたね。

小学校の冬休みは、お弁当を持って、毎日みかん採りでした。収穫するだけの手伝いだったのが、高学年になると、みかんの入った大きなカゴを運ぶとか、モノラックを使うとか、できる作業が増えるたびに「父ちゃんに近づいたかな」って感じていました。

 

 

-そのまままっすぐに志したのですか。

バレーボール漬けだった高校生のころ、進路を決めるときに、お金のこととかいろいろ考えはじめて。「すぐに就農してもつまらんしなあ」と思って高校卒業後は隣町の会社に就職しました。野菜苗を育てる会社で、勢いもあったんで、勉強もかねて入社を決めました。でも「結局は柑橘農家になるのなら早くやろう」となって、1年後には実家で柑橘農家になりました。

 

宇都宮の祖父は、一般的な栽培方法で柑橘をつくる、いわゆる“慣行栽培”を行っていた世代。父の代から無茶々園の柑橘農家となり、農薬に頼らない特殊な栽培に舵を切った。そして、宇都宮は19歳で、父のやり方を引き継ぎ、無茶々園の柑橘農家になる。

 

-栽培にあたって、お父さんから教えてもらったことはありますか?

子どもの頃から、山の作業だけではなく、選果や箱詰めの作業をずっと見てきたので、感覚的にやることを覚えていきましたね。父から具体的に教えてもらったことはほとんどないです。

 

-農薬に頼らない無茶々園の栽培方法については、最初から受け入れたのですか。

慣行栽培をしていた祖父母から、「消毒しよったら肌がかぶれる」みたいな悩みを聞いていたので、無茶々園の方針に共感するというよりは、それをやって当たり前みたいな感覚でしたね。

 

 

-地域全体も、慣行栽培から農薬に頼らない特殊な栽培に切り替わったのが、宇都宮さんのお父さんの時代でした。

父は、僕が小学校ぐらいのときから、無茶々園の農事組合法人の理事長を務めていました。この地域では、それまでスプリンクラーで農薬の散布をしていたのですが、父が、一軒一軒、時にはケンカをしながらも、「農薬を散布せず、水だけにしてほしい」と交渉していたのを覚えています。「父ちゃんはいつもケンカしよるな」というのが小さい時の記憶。父はそうやって地道に、無茶々園の賛同者を増やしていったのでしょうね。

 

-では、お父さんのやり方から変えたことは。

無茶々園の栽培方法は慣行栽培よりもどうしても手間がかかります。それに、この地区は段畑なので作業効率がとても悪いんです。その分、できるだけ効率をよくする手立てを考えています。まだ父が経営者なのですが、箱を組み立てて、フタをしてくれる梱包用の機械を勝手に買いました(笑)。

 

 

-今、農薬についてはどんな捉え方をしていますか。

無茶々園といえば、無農薬、有機栽培、低農薬といったイメージがある程度浸透しています。だからこそ、ここまで成長できたのだと思います。イメージってとても大事なことですし、他と同じことをしていても“つまらんな”、と。今まで地域の人たちや父がやってきた努力を考えると、そう簡単には変えられません。

とはいえ、樹と向き合いながら3年ぐらいすると、自分でも少しずつ農薬のことが分かってきました。「あの消毒はしたほうがいい」とか、逆に「この農薬は無くせるんじゃないか」とか。ただ、除草剤をやれば作業が楽になるとか、そんな単純な話でもないのです。

 

柑橘農家になり、15年が経つ。その間、畑も自然環境も変化し、宇都宮自身もいろんな苦節を乗り越えてきた。

 

 

“タフ”とは、現状を受け入れるということ。

 

-振り返っていかがですか?

最近、出荷量が減っています。僕が柑橘農家になった時より温州みかんだけで半量ぐらいになりました。祖父が植えた樹が老いて、“世代交代”もしたので、この10年は量が減ると覚悟はしていました。植え替えたことでの失敗もめちゃくちゃありました。振り返れば、挑戦と失敗を繰り返した15年でしたね。

 

-もっとも大変だったことは?

父が地元議員になったことですね。僕が27、8歳のころ、祖父は70代前半で三世代と外国人実習生との4人で4.2ヘクタールの作業を回していました。ところが、父が議員になり、その翌年には祖父の病気が発覚して。ピンチは重なるもので、実習生がたまたま切り替わる年だったので、ひと夏、畑をほぼひとりで管理していたことがありました。どうしても手が回らず、害虫被害がその2、3年後とかに一気に来ました。あのときは本当につらかったし、悔しかった。

 

 

-農業は、環境にも大きく影響されます。

2021年は、大量飛来したカメムシに多くの柑橘がダメージを受けました。もともと生り方も少ない上に樹の病気も重なって、なんでここまで悪いことが重なるかなって、さすがに嫌気がさしました。それでも、「もうちょっと我慢したらなんとかなる。そんな時期もあるやろう」と思って、無駄口をたたかず、黙々と作業を重ねてきました。

これまで、計算通りにはほとんどいってないんですけど、何もかもが失敗しているわけではありません。農業は、やったらやった分だけ売り上げにつながるし、手を抜けばそのままマイナスが返ってくる。大変ですが、やりがいはありますよ。

 

-柑橘の品種も増えてきましたね。

植える品種を何にするかという判断はとても難しいですし、大事です。樹が収穫量の“戦力”になるには6〜8年はかかります。その時にすでに、その柑橘のブームが去ってしまう場合もありますしね。晩柑系をやろうとも考えたんですけど、その収穫時期は、他の柑橘の作業が多いので、そこがおざなりになっては元も子もありません。今は、温州みかんやポンカンといった王道で固めて、ある程度余裕ができてから他のものに挑戦しようと思っています。

 

-今、一緒に作業をする人はいるのですか。

父はたまに手伝うぐらいで、ベトナム人の実習生と、ほぼ2人で園地を守っています。実習生とは言葉の壁があるのですが、翻訳のアプリとかを使って、どうにかやりとりしています。実習生って、いいですよ。一生懸命頑張ってくれるし、家族のような存在になっていきます。うちの農園にとって無くてはならない存在ですね。

 

2022年1月からは、農事組合法人の副理事長になり、一生産者から、地域の未来を担う立場へとステップアップした。責任をまっとうするためにはまず、生産者として自分自身を磨いていく。宇都宮は、そう肝に銘じて、日々考え、作業に打ち込む。

 

 

目指すものはそれぞれ。そんな組織が強い。

 

-若い世代にリーダーを託すのが無茶々園です。

それでも、僕より若い人って2、3人しかいないので、会議とはではまだ自分の意見を強く主張できない面もあります。ただ、副理事長を任されてから、責任感も強くなりましたし、いろんなことをすごく考えるようになりましたね。

 

-どんなリーダーをめざしていますか?

ちょっと突き抜けた人になりたいですよね。数字の上でもだし、「アイツは他とは違うな」って思われるぐらいの仕事はしないといけないなって思います。根が、負けず嫌いなんですよね。出荷の箱の数を他の人より多く出したい、とか(笑)

 

-どんな園地をめざしていますか?

畑を見たら、どれだけ手入れが行き届いているのか一目瞭然です。どうしても畑は、そういう目で見てしまいますよね。僕自身、人に見られて大丈夫な畑をつくらんといけんな、と思っています。実際はまだまだなのですが、自分自身が納得できる畑にしていたいですね。

 

-無茶々園の農家として、思うことは何ですか。

無茶々園は、僕のような生産者がいて、出荷手配や広報をしてくれる人たちがいる。それで成り立っている組織なので、僕は僕の役割として、精一杯、いい柑橘をたくさん作れるように努めたいです。若手の中には、自ら作って自ら売る、勢いとアイデアのある子たちもいます。いろんなスタイルの生産者がいて、ライバルでありながらもリスペクトしあう。そんな多様性のある無茶々園でありたいな、と思っています。

 

 


 

「“悔しさ”が僕の糧ですね」。宇都宮は二度、この言葉を口にした。山を這(は)うように広がる狩浜の柑橘農園で、4ヘクタールをほぼ一人で管理したという当時の大変さは想像を絶する。ピンチで折れないタフさは幼少の頃から柑橘作業と向き合ってきたことと無縁ではないだろう。飄々と、“重荷”を肩に乗せる。たくましい彼の背中に、明浜の未来が託される。

 

取材・文 / ハタノエリ 撮影 / 徳丸哲也

pagetop